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しばらくは独りで書く時期がありました。
それでも、もともと晶惺さんと何度も練り直した筋書きにそってです。
そこへ私自身が考えていた別の物語の要素も多少加えたりもしました。
よく似たような設定の物がいくつかあったので。

震災の年、年度が変わると子ども会の役職に就くことになり、また多忙な日々でしたが、コンビニの時と比べて時間は作りやすかったです。

学生時代に出した本の続きは、まだ晶惺さんが結婚する以前にすでにたちぎれていました。
原稿を印刷屋さんに入れていたのですが、その印刷屋さんがいつの間にか店じまいしてしまい、原稿も紛失してしまったのです。

ですから初めからまた書き直し。
いっそうのこと、過去に書いた物にこだわらずに自由にやってみました。
いくらかまとまった時、晶惺さんに読んでもらおうと、彼女のご実家に届けました。
読んでくれた後、電話口で彼女の本音が。

「おもしろかった。すごくわくわくしながら読めた。でも、やっぱり書きたい。書きたいよ、私も。だってこれしか私、ちゃんと書いたのないんやもん」

その反応を待っていたように思います。

「そうでしょ? 書きたくなったでしょ? やろうよ、また。しばらくはまだ落ち着いて書けないだろうから、私が書いた分を手を入れて行ってくれてもいいし」

晶惺さんと少し距離を取ったことで、彼女は自分が書くのが好きだったことを思い出し、私は晶惺さんの存在に助けられていたことを思い出しました。

コンビ復活は意外と早かったです。
晶惺さんが身の回りの事が落ち着くまで、とストーリーは二人で会った時に練って、プロット帳を作って書きこみました。
それにそって私が書いた物、プロットはあくまで骨組みなので書く時点で色々肉付けしたものを次のミーティングで晶惺さんに読んでもらう。
彼女の感想やだめだしで、また手を入れたりしながら少しずつ進んでいきました。

そのまま順調に行ってくれたらよかったのですが、それからもいくつか色んなことに阻まれることになります。





(つづく)
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原稿紛失とコンビ解消、コンビ復活を機に、設定は大幅に変わります。

今までは対異星人との戦争後、地球脱出と新天地を求めての旅を中心に考えていました。
けれど、どう考えてもいつか行き詰まりそうでした。
私達自身、この設定に納得していなかったこともあります。

大きな災害に直面して、復興に頑張っている周囲の中で感じた事ともギャップを感じて。
地震や災害が多くてもこの国が好きだし、捨てるなんてできないし。
自分の思いと違うことは書けないし。

その頃兵庫には不死鳥のごとく甦ろうという共通の思いがありました。
兵庫に縁の深い手塚治虫さんの「火の鳥」のように不死鳥をイメージして、たくましく立ち上がろうとしていました。
身近にそれを感じられる所にいたので、なおさら。

それとこれは結婚当初から感じていた事でしたが、主人側の父がもと海軍の軍人さんだったこともあったし、その弟にあたる叔父がシベリア抑留を経験した人であったことも。
当時の人達の悲痛なまでの思い、命を懸けても守りたかった物……。
それらを聞いてきた上は、何だか今までの書き方やストーリーでは生ぬるい気がしてきました。


学生時代出した本を読んだ実家の父が、
「こんなのお遊びでしかない」
と言ったことがありました。
学徒の経験があり、焼夷弾が降る中、死も覚悟したことがあった話、戦後の苦労話は子どもの頃から何度も聴かされていたので、父にはただの面白半分にしか思えなかったのでしょう。

そういう事を経て、何度設定もストーリーも練り直したか分かりません。
結局は当初とは登場人物は同じでも違うものになりました。


新しく書き直すつもりのその話を、私は実家の両親、そして義父や義父の弟である叔父に読んでもらいたいと思いました。
彼らが伝えてくれた思いも盛り込んで、きちんと何かを伝えれる物語にしたいと思ったのです。

けれど、時間が待ってはくれなかった。

実家の父が心筋梗塞で倒れ、入退院が続き、仕事も引退することに。
自分の父親が80で亡くなる直前まで歯科医であったので、同じように生きている間は獣医師でいたいと言っていた父でしたが、まだ60代半ばでのリタイヤでした。

同じ頃、義父も入退院を繰り返し、やがて在宅介護生活に入ります。

震災から何年か経った頃、現実のそういった状況に焦りも覚えていた30代半ば~後半でした。



(つづく)

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この所、更新がとだえておりました。
この所留守にすることが多いのもありますが。
通院の回数も増えているのですけれど、この前の検査の結果、乳腺外科でしていた3カ月に1回の注射が次回からなくなることに。発症から3年。再発の兆候が見られないので、飲み薬だけで様子を見ていくとのことでした。
少し進歩。
ありがたいことです。
母がその身を通していろいろ教えてくれたのかもしれません。

人が生きている間の時間というのは実は大変短いのでしょう。
一生の間にどれだけの事ができるのでしょう。

それを間近に感じたのは、主人と私の両親のこと、そして自分自身のことからでした。

娘が中学の頃、実家の父が心筋梗塞で倒れました。
幸いすぐに病院に運ばれて、処置していただいたことで一命は取り留めたのですが、その後も入退院、別の病気も分かりました。

同じ頃義父が持病で入退院。しかし病院の対応に主人が怒って、自宅療養という形に。
日祝以外は毎日近所の開業医さんの往診、点滴などがあり、私も身動きがとれない時期でした。

二人ともそれぞれに好きなことやりたいことがありました。
けれど最後の何年かはそれができない状態で、やり遂げられることなく、この世を去って行きました。

義母は毎年のように心不全を起こす時期がありました。
おこすと3カ月は入院の状態。
義母もやり遂げたいことがありましたが、最後はその用事で出かける日、脳梗塞で倒れてしまいます。
結局後のことをどうするつもりであったのか、それを伝えることなく倒れたあと半月後、一度も意識がもどらないまま、亡くなりました。

そして私も……。
義母が亡くなった翌年、腎臓の病気のために入院。
義母と同じように心不全も起こしていました。
その入院中に癌と膠原病が見つかります。

実家の母は父の介護の後も精力的に周囲の人達のために動き回っていました。
私の病気のことで、また心労をかけてしまいましたが、入院中もその後も色んな形で助けてくれました。
私の癌手術の後、心臓の病気で入院。
更に1年後に、母自身にも癌が見つかります。
亡くなったのは去年の暮。
クリスマスを目前にした日でした。

人は生きている間にどれだけの事ができるのでしょうか。
できなかったことの方が多いかもしれないです。
父が倒れ、義父も倒れ……という時期、私は何かに追い立てられるような焦りを覚えていました。
書いていた作品、二人に読んでもらいたかったのもあります。
それと同時に自分もいつまで書けるんだろうという気持ちにもなりました。

ですから介護の合間や父や義母の入院先に通う合間、少しでも時間があれば書こうとしていました。
その焦りで、何度も晶惺さんとぶつかってしまったこともあります。




(つづく)





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震災の後、しばらくして晶惺さんは自宅へ戻り、それからは育児に追われる日々。
あれだけ書きたいと言っていましたが、現実その時間もあまりなかったらしく、月に1度会うたび、彼女担当のシーンがほとんど進んでいないという状況が長く続きました。
書くスピードが二人で全く違ってきて、私は追い立てられるようにどんどん進んで、彼女が書きたいと言っていたシーンまで取り上げてしまうことも何度もありました。

彼女も何かと忙しそうでした。
が、私も義父母の介護や世話等をやりながらも、時間をやりくりしながら書いてきたという思い上がりのような物を感じていました。その思い上がりで彼女を責めるような気持ちがむらむらと。
書いて来ても、会う日の間際にあわてて書いたような文体、私が書いた後のシーンを読み込んでいないのか、後で出す予定のシーンを書いてしまってたり、先に種明かしをしてしまってたり。
文体にも明らかな違いがありました。
彼女の癖みたいなものがかなり気になってしまって。
これじゃあ、だめです。と、私はだめ出しばかりで、彼女は何度も同じシーンを書き換える羽目に。
書いていて楽しいはずはありません。

そのうち穴あき状態のまま、先の原稿ばかりが進んでいくようになりました。
彼女との温度差も感じていました。
話しをしていてもすぐに脇道に逸れたり、携帯をいじりだしたり……。
やる気があるのかと叱ったことも何度か。

義父を見送り、介護生活から少し時間が作りやすくなったころ、彼女が時間のやりくりをしやすいようにと私の方が彼女の家に行って、ミーティングをするようにもしました。
しかしそんな頃、彼女の家がある方向へ向かう路線で大きな脱線事故がありました。
その時も彼女の所へ行くために私はすぐ近くの駅にいたのです。
無理に行く状況ではなかったのですけれど、駅にいる私たちには何が起こっていたのか分かりません。
約束を守らないと。
反対側から大阪へ出て、そこから私鉄で彼女の所へ行くことにしました。
やっとの思いで彼女の家に行くと、テレビのニュースで大騒ぎになっていて、そちらに気を取られてミーティングどころではありません。

結局その後、路線はしばらく閉鎖。
遠回りしながら彼女の所へ通っていたのですけれど、そんな風にして行っても、彼女の原稿ができているでもなく、無駄足に近い状態が続きました。

けれども、私も実家の父の具合が悪くなったり、義母の突然の入院があったりという日々。約束を反故にしてしまい、原稿だけを郵送することも。
しかし感想が返って来なかったりと、何とはなしにいらいらがつのる日々。
もう本にすることは諦めないといけないかなと、そんな不安も湧いてきて。

父が亡くなったのはそんな頃でした。
一番読んでほしかったし、認めてほしい人だったけれど、最期の3年間は本を読める状態ではなかったです。
もっと早くに……と思っていたから、その思いで晶惺さんを責めていたかもしれません。

そんな私でしたのに、父の葬儀に晶惺さんは駆け付けてくれました。
学生時代何度かうちにも来てくれ、父ともなじみでしたし。
その気持ちにこたえられる友だちだったかなと、席でうつむく彼女を見てそう思いました。

次の年には義母が倒れ、意識のないまま入院。
主人の姉妹と交代で付き添う毎日で、晶惺さんにはなかなか会えなくなってしまいました。

同時くらいに愛犬も具合が悪くなってしまって。
痙攣をおこすこともしばしば。
半月ちょっとで義母が亡くなり、その後もこの子の介護で、殆ど家を空けられず、家の近くで晶惺さんに会ってのミーティングとなりました。

今思えば、コンビニ時代や震災の頃以上に精神的に辛かった時期でした。
それでもまだ本にすることを諦めきれず、気持ちのどこかにあった野望みたいなものにすがりついて何とか踏ん張っていたように思います。

それからも身内との別れは続いて行きましたが、それはまた次回に……。


(つづく)



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義母が亡くなって四九日もならない頃、訃報が入ります。
それは父の弟にあたる叔父。
長い間、娘(私の従妹)家族のもとで闘病生活をしていましたが、兄である父の後を追うように逝ってしまいました。
幼い頃、この叔父に小説家になりたいと言ったことがあります。
叔父は若い頃に外国へ渡って成し遂げたい夢がありましたが、それを諦めたことがあるそうです。
「それが本当にやりたいことなら、諦めたらいかんよ」
というような内容のことを言ってもらった記憶があります。

その叔父の葬儀のため、母や二人の弟と下の弟の奥さんと東京まで行くことになりました。
現地では疎遠になっていた父の姉や弟達という伯母、叔父らに再会しました。
伯母は私の名付け親でもあります。

病気のため足腰が弱っていた伯母は、遠方であるために父の葬儀に来ることができなかったことを母の手を取ってわび、それからずっと、二人は肩を寄せ合うような形で、叔父の葬儀中一緒にいました。
最後に伯父と共にタクシーに乗り込みながら、見送る私たちを涙を浮かべて見つめながら何度も頭を下げていましたが、それが伯母とのお別れになってしまいました。

この伯母が亡くなったことで、大きく周辺が動き出すことになるのですが、それはもう少し先の事です。

その前に私自身の転換期を超えないといけませんでした。
東京から関西に戻って、その後義母の法事や父の法事などが続き、それを一つ一つこなしながら愛犬の介護生活に入りました。

その年の年末ごろから、風邪だったのか咳が止まらなくなりました。
近くの開業医さんの所で診てもらっていましたが、咳止めの薬をもらうくらい。
その薬を飲んでも咳がとまりません。
学生時代の肺炎を思い出しました。
そのうち、体が大きくなりだしました。
風邪でしんどいから運動不足で太って来たのかと思っていました。
ぐったりしている愛犬と添い寝するように、一日の大半を横になっていた状態です。

そんな状態のまま年を越したわけですが、翌年は自身の闘病生活の始まりでもありました。

この頃は、多分私の人生の中でも大きな節目なのかなと思います。
そしてその節目は今なお続いているようでした。



(つづく)

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咳が止まらないのと、体を動かせないほどのしんどさ、その上息苦しさと動悸が激しい状態。それがずっと続いていました。
2月になり、それまでしょっちゅう痙攣を起こしていた愛犬クリスでしたが、その頃から痙攣を起こすことはなくなり、いい兆候が続いていました。
もうクリスは大丈夫。
獣医の弟からもう先が長くないと聞いていたのですが、希望も少し持てるようになりました。
そんな頃、実家の母がクリスの見舞いを兼ねて、義母のお骨に手を合わしに来てくれました。
私が体調不良ということもあり、義母の納骨はまだでした。
1周忌がその年の6月に控えていたのでその頃にという予定だったのです。
母は私の顔を見て、嫌な予感がしたそうです。
父の介護を何年も続けてきた後。
父の事だけに時間を使うような生活が続いていた母でした。
1周忌がすんだばかりでしたが、いまだその心の空白が埋まることがなかった母でした。
それでも一心に前向きに、今度は他の人達に心を向けることでその空白を埋めようと努力していたのを感じていました。
これ以上、母の心配の種を増やしたくなかったということもあり、母の前では努めて元気に明るくしていたつもりですが、全身のむくみは見た目にもわかるし、精神的にもあまりいい状態でないことを見抜いていたようです。
帰り娘が車で送っていく道中、
「お母さんのこと、頼むね。支えてあげてね」
と言っていたそうです。

3月3日、本当ならお雛さんを飾って、ちらしずしを作るのが恒例でした。
しかし咳はますますひどくなる一方。
薬をもらわないといけなかった日でしたが、通院できないほど、体が重だるく、家事をするのも辛い状態。
主人の昼をやっとこ用意して、その後横になっていました。
夜、娘が帰って来て車で病院へ。
それまで診てもらっていた近くの病院がすでにしまっている時間でしたので、少し離れた病院に連れて行ってくれました。実は小児科を主にされてる所で、娘の幼い頃の主治医の先生でした。
そこの先生が一目見て、ネフローゼ症候群ではないかとおっしゃいました。
で、今現在も通院している県立病院に紹介状を書いてくださいました。
義母がずっとお世話になって、最期もそこで迎えた病院です。

「今日はもう遅いから、明日必ず行きなさい。必ずですよ。でないと大変なことになりかねないから」
厳しい顔でそう言われました。
娘は仕事がありましたが、休んでくれました。
2月末頃から、おしっこが出なくなってぐったりしているクリスのことも気がかりでしたが、自分が元気でないと彼女を介護することもできない。
そう気持ちを切り替えて、病院に向かうことに。
弟夫妻が後のことを引き受けてくれたので、少し安心でした。
クリスも入院すべきだったのでしょうが、
「家で、家族の側の方がいいだろうから」
と弟の方が通ってくれることになりました。

その病院である腎臓内科のお医者さんと出会います。
即刻2カ月ほどの入院を言われます。
そしてこの先生が的確に判断し、動いてくださった事で他にも大きな病気が早期に見つかり、命拾いすることになりました。
あやうく母より先に逝く、最大の親不孝をしてしまう所でした。

この入院の初め、病因を見つけ今後の治療の方針を決めるために腎臓の組織検査をすることになります。
腎生検と呼ばれるもので、ペン状の針で背中を3か所刺し、腎臓の組織を採るというもの。
その後は一晩身動きができない状態でした。
かなりつらかった一夜。
しかしその夜がクリスの最期の夜となりました。
その前々日の日曜。
弟夫妻が見舞いに来てくれましたが、その後家に寄ってクリスの容体も診てくれて、しばらくいてくれたそうです。娘が心細いだろうと、心をかけてくれた二人でした。

おしっこが出なかったクリスでしたが、私もそれに近い状態で、水が体中にたまり、心臓も肥大化して心不全を起こしていたのです。
翌早朝主治医の先生の回診で、OKをもらってようやく体をおこせるようになったころ、クリスは天国へと旅立ちました。
まるで、私に警告を出してくれていたように。
全てを託せる場所と人を見つけられたから、もう安心だと言うように。
主人が様子を見に来た9時頃は気持ちよさそうな穏やかな顔で眠っていたと言います。
その後、痙攣を起こすことがなくそのまま、眠ったまま息を引き取ったということでした。




(つづく)



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この入院の間に、腎臓の病気のほかの病気も見つかります。
左の乳癌。
心臓が肥大していたので、聴診器を当てたときに主治医の先生があれ? と思った事で乳腺外科の先生に連絡を取ってくださって、すぐに検査をしてもらうことができました。
はっきりするまで、娘には言えないと思っていました。
クリスをなくしたばかりで、今度は私が。
母にも言えないと思っていました。
父を見送ったばかりで、今度は……。
自分の体のことより、大事な人たちを悲しませることになる事が辛かったです。

けれど告知はたまたま見舞いに来てくれていた娘も、聞くことに。
乳腺外科の先生が話があると言って病棟まで来てくださったのですが、そちらでの検査を知らない娘は不審に思って、一緒に聞くと言うことになってしまいました。
母には自分から言えず、長男である弟にお願いして状況のよさそうな時に伝えてもらうことにしました。

弟から告げられ母がどんな思いをしたかは、分かりません。
それから時間を作っては、何度も遠い道のりを大きな荷物を抱えて通ってくれてました。

癌であると告知され、当初はおそらくリンパ節へ転移しているだろうと言われていました。
左脇のリンパにいくつも怪しい影があったのです。
そうなれば他への転移もありうるということ。
しかしネフローゼの治療が始まり、ステロイドをまだ大量に投与されている状態。
ステロイドがある程度減らせる頃でなければ手術はできないと言われました。

同じ病室に別の癌患者さんもおられて、その闘病の様子も見ながら、自分もいつかはと色んな覚悟を決めた頃です。
もしかしたらもう長くないのかもという、不安もありました。

その前年末頃から体調が悪かったので晶惺さんとも会わないまま3か月を過ぎようとしていました。
彼女に入院したことや、その後の経過をメールしたりもしたのですが、返事が来なかったので、おかしいなと思っていたんです。
やがてずいぶん経ってから返事が。
彼女はその当時ある事故に巻き込まれて、もう少しで命を落とすような状況だったことを知りました。
話しを聞いてよく生きていてくれたと、どんなに思ったか分かりません。
胸の骨を折ったということで、彼女も動けない頃だったのです。

病気でなくても、いつ何が起きるか分からない。
命って本当にちょっとしたことでなくしてしまうこともあるんだ。
儚くてもろくて、そして何よりも大事。
震災や脱線事故の中で思った事が甦りました。


いつまでも元気でいつまでも書くことができるとは限らない。
そのことを思い知らされたような気がします。
母は病院に来るたびに、もっと若い頃にやりたいことをさせてやりたかったと、何度も言いました。
当時祖母の介護もありましたし、決して裕福とは言えない中だったけれど、アメリカへ行きたいと言って来た時に本当は行かせてやりたいと思っていたのだと。
コンビニの店長をし、その後は義父母の世話もしてきた。これからは何にも縛られずやりたいことをやり遂げて、満ち足りた気持ちで生きて欲しかった。小説家になりたいなら、思い切り書きたいことを書いてやり遂げて欲しかった。あんたにはいっぱいがまんさせてしまったから、それが悔やまれる。
そんな風に言っていた母でした。

でも実は病室に書いていた原稿を持ち込んでいた私です。
娘に頼んで持って来てもらっていました。
癌と宣告されても、そしてもう少し後で一生完治することはないと言われるSLEであることも分かりましたが、まだしぶとく書けるところまで書きたいと、母に言われるまでもなく思っていた私でした。
そういう所は頑固なんです。

それでもある時、1階の外来で検査を待っていた時、待合室から見えた満開の桜に、1年後、2年後とまた見られるのかなとふと思ったことがありました。
あとどれくらいの時間を許されているのかは分かりませんが、それでも最後まで書き続けたいし、できれば書いてきた物を日の当たる所へ出してあげたい。
そんな日が来ればいいなと、漠然と思いました。

4月のある日曜日父の月命日にあたる日。
父の納骨があるというので、外出許可をもらって一時帰宅することに。
その日は丁度クリスの49日でもありました。
なぜか父とクリスがともにいるような気がして。

午前中に動物霊園へ、昼過ぎに家族3人で実家の墓がある丹波へと。
ここでも遅咲きの山桜が咲いていて、なぜかその花に励まされた気がしました。
クリスの命をもらったのかもしれません。
父が側にいて「ダイジョウブ」と言ってくれているようにも思えました。

今年も桜が咲く季節になりました。
あれから3年。
桜を見るたびにあの時の思いがふっと湧き上がってくるのを覚えます。

人の与えられた時間には限りがある。
また来年。そんなことは誰も保証できないわけです。
だったら今できることをするしかないですよね。

去って行った人たち、愛犬を思うたびそんなことを思うのでした。


(つづく)

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プロフィール

AYAKA

Author:AYAKA
「乳癌とエリちゃんに感謝。病気に負けない日々」を綴っていたあやにゃんです。

日々思うこと、自作小説の執筆裏話を中心にお届けします。
不定期更新ですがよろしくお願いします。

アメブロで、猫のウバとブログやってます。
http://ameblo.jp/ayatakelog/
(ウバのひとりごと)
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武美肖佳&龍未晶惺の名で、学生時代からの親友とこのたび文芸社から本を出版しました。

「DESTINY―遥かなる宇宙より―」
武美肖佳(たけみあやか)
龍未晶惺(たつみしょうせい)

四六版・並製268頁 
定価1,155円(消費税込み)
文芸社
ISBN978-4-286-12296-0

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